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プログラマとSE側とエンドユーザの橋渡しをしてます。 「それって結局どういうこと?」。 とにかく難しいことをやさしく考えるのが好きです。
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北アフリカのリビアで42年にわたる独裁政治を続けてきたカダフィ大佐が2011年10月20日に死亡しました。リビアの反カダフィ派を始め、欧米諸国がこぞって歓喜している様子が各メディアで流れましたね。海外メディアではカダフィ氏の最期の様子や遺体の映像をためらいもなく流したようですが、日本国内では「自粛」ムードで新聞メディアなどによる活字だけの報道というケースが多かったようです。

ネット上の反響をみても「たとえ圧政を強いた独裁者といえど、人の死を喜ぶムードにはついていけない」という論調が目立ちました。私は「なんとも日本人らしいなぁ」と眺めていたのですが、よく考えてみると、確かに「生命の死はいずれの場合でも悲しむべきである」的なバッグボーンは幼少のころからずいぶんと教え込まれてきたような気がします。これが、本来の仏教とは別の「日本的仏教的解釈」なんですかね。

私自身、仕事の都合上、閲覧せざるを得なかった「カダフィ氏の遺体」はどうにも正視にたえませんでした。彼がリビア国民をどういう形で支配してきたのかは、よく理解していませんので、本当に一シーンだけを切り取った、あくまで浅い個人的な感想になってしまうのですが、正直なところ、カダフィ氏という一個人の死に対して、「なんと惨い」と同情する気持ちが沸き起こってしまったことも否定できません。

なんとなくではありますが、日本人的感覚でいうと、やはり、すべての生命に対して「殺されて当然」「死んで当たり前」という発想は日常生活では持ち得ない気がします。そりゃ誰だって家族や友達を傷つけられれば、怒りや憎しみが沸くのは当然ですが、当事者ではなく、自分の生存域とはかけ離れた世界・空間で起きている死に対しては、死を希うことへの抑制が働くのでは、という感じです。

どんな大罪人であっても、亡くなったら「仏さま」といって遺体に手を合わせる日本人ですが、唯一神の支配する文化圏の方にはなかなか相容れない思想なのかもしれませんね。

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物事にはその時その時で「コア(一番大切な事)」があるはず。コアを探しの実践者、別名「コアラー」です。コーラも好きです。
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